母の「運頼み」「神頼み」  頼むからやめてくれ!!

僕の母には悪い意味での「問題の先送り癖」があった。

というか

  • 「なる様になるさ」と構えるわけじゃない「運頼み」
  • 「他力本願」とは少し違う「神頼み」

みたいなモノがあった様に見えた。

僕はこの、母の「運頼み」「神頼み」が凄く嫌だった。

そんな話。

母の「運頼み」 そんなモンにスガルから損すんだよ。

僕の父や兄は「パチスロ」や「競馬」といった「ギャンブル」にはハマらなかった。

それは我が家の唯一の救いだった。

しかし、母は「宝くじ」にハマった。

 

我が家には「金欠」が付き纏った。

父は働かず、酒に溺れる日々。

兄は無尽蔵にお金を要求する。

オマケに母や僕は「低収入」だ。

「貧困」とは濃密な付き合いだった。

 

「貧困」から脱出するには、

  1. 支出を減らす
  2. 収入を増やす

このふたつが不可欠だ。

母は「支出を減らす」事について、「見ない様にしている感」がある。

まぁ、我が家の主な支出は「父の問題」と、特に「兄の問題」が絡むからね。

「そこ」に目を向けたくない気持ちもわかる。

 

じゃあ、「収入を増やす」事についてはどうだろう。

「スナック経営」などと、それなりに母も考えてはいた様だ。

しかし、「自分の店を繁盛させる工夫」や「収入の多い、別の職に就く」といった事は出来なかったみたいだ。

母の能力不足なのか、そこまで考えられる状況ではなかったのか。

そんな母が選んだ「手っ取り早い選択」が「宝くじ」だったのだろう。

一攫千金狙い

僕が中学生の頃だろうか。

母が初めて「宝くじ」を買ってきた。

カーさん「チッタ、宝くじ当たったら何買って欲しい?何でも買ってあげるよ?」

なんというか、今書いていても涙が出そうな話だ。

当時は「宝くじが損をするシステム」だという事を知らなかった。

だけど、漠然と「当たるわけねぇだろ。」という思いがあった。

 

母は口を開けば「お金が無い…。支払いが…。」と、呪詛の様に呟いていた。

「宝くじなんて買うなら、その分を少しでも支払いに回して欲しい。」

僕はそう思うのだけど、母は違う。

「どうせ(支払いに)足りないなら、パァーッと使っちゃおう。」

実際に聞いたわけじゃないけど、そんな気質がある様に見えた。

目的の為に「少額でも淡々と貯める」という事をしない。

まぁ、「父の問題」も「兄の問題」も抱えた状態だし、そういう頭になれないのもわかる。

しかしこの「努力無しの一攫千金狙い」みたいなモノは、どうも好きになれない。

「まぁ、母の収入だし、それで気分が紛れるのなら良いのかな。」と思う事にした。

 

カーさん「チッタ!凄いの見つけた!」

名称は忘れたが(多分、ナンバーズなのかな?)、「何ケタかの数字を自分で決める宝くじ」みたいなのにハマり出した。

カーさん「これなら絶対に当たる!当たったら何買って欲しい?」

この自信がどこから来るのか謎だった。

おそらくは「空元気」なのだろう。

チッタ「もういいよそれ。当たってから聞いて。」

当時は漠然と「嫌だなぁ」と思っていたのだけど、母の「空元気」が痛々しくて見てられなかったんだと思う。

「幸運」にスガル母。

その辺りから、母はいわゆる「幸運グッズ」を集めだす。

「黄色の財布」「よくわからんお守り」「金色の謎キーホルダー」「本物だかパチモノだかの蛇の皮」などなど。

それ買う金で光熱費払えたよね…。

今思えば、母も限界ギリギリだったのだろう。

「現実を見てない感」が凄かった。

母の持ち物が「黄色」や「金色」で溢れていくのが、見てて切なく、ツラかったのを覚えている。

しかし、僕は「切なさ」「ツラさ」を直視したくなかったのだろう。

僕は「その気持ち」を「怒り」だと誤認する事で心を保った。

「偽りの怒り」を感じる様になった僕は、「幸運グッズ」の事で母とモメる様になった。

チッタ「もういいよ。そういうのは(幸運グッズ)イチイチ見せてこないで。」

どうにも「母の幸運グッズ集め」は、健全なモノに見えなかった。

そんな「不健全なガス抜き(だと思うモノ)」に付き合う気にはなれなかった。

だから損するんだよ!!

母は遂に「怪しげなモノ」にまで手を出した。

母は当時、「数字選択式の宝くじ(多分ナンバーズ)」にハマっていた。

生活費を差し引いた「余力分」で楽しむのなら、それで良かった。(余力なんてモンは無いけどね。)

しかし、いつの間にか「母の宝くじ」は、「夢を買って楽しむ」モノから「現状を脱出する為の明確な手段」になっていた様だ。

 

カーさん「チッタ!凄いの見つけた!」

「過去数回分の当選番号」を入力する事で、「次の当選番号」を導き出す「魔法の電卓」なるモノがあるらしい。

もうね、何も言うまい…。

母は「魔法の電卓」を買った。

良いさ…。

それでカーさんの気分が紛れるのなら…。

 

カーさん「使い方がわからない…。」

母は機械に弱い。

母は「魔法の電卓」を買ったは良いが、「数回触っただけ」で諦めた。

僕も「触って」みたのだけど、確かに「複雑」で「不親切」で、何がナニやらサッパリだった。

頻繁に出てくる「ERR」の文字。

実に「操作する人間の意力が削がれる」商品。

「そういう」詐欺商品なのだろう。

 

僕の好きな言葉に「やってダメなら諦めろ。何もせぬまま諦めるな。」という言葉がある。

結果からすれば、「触るだけ時間の無駄」なシロモノだ。

だけど僕は、何度も「魔法の電卓に触る」事で、「こりゃあ、無理だ。詐欺商品だな。」と理解出来た。

母は「数回触った」だけで諦めた。

だから、「これ(魔法の電卓)が自分には合わなかっただけだ。」と、詐欺商品である事を見抜く事が出来なかった。

事実、「魔法の電卓」の後も「似た様な商品」を購入して来た。

だから損するんだよ!!

母の「神頼み」 「神様」は何も助けてはくれないよ?

我が家には「お手製の」仏壇があった。

「仏壇」とは少し違う「神棚兼、仏壇」みたいな感じ。

母は毎日「それ」にお線香をあげたり、お供えをした。

僕はイマイチ「神棚」や「仏壇」が何の為のモノなのかがわからなかった。

だから、母に聞いてみた。

カーさん「毎日お祈りをすれば、神様やご先祖様がトーさんやニーちゃんを良くしてくれる。」

そんな感じの返答だった。

 

母が「本心」で言ったのか、「そういうモンだから」と概要を伝えただけなのかはわからない。

僕は強い嫌悪感を感じたのを覚えている。

神様が「父のアルコール依存」を止めてくれるのか?

神様が「兄の壊れた金遣いなんか」を止めてくれるのか?

「これ」をするのは「神様」じゃないだろ?

 

父を病院に連れて行く。

兄からの「お金の要求」をキゼンとした態度で断る。

「これ」が正解なのかはわからないけれど、少なくとも「一度は通らないと改善は見込めない道」なんじゃないだろうか?

「それ」をしないで「神様が良くしてくれる。」は、あまりにもファンタジーが過ぎるのではないか?

 

現状を良くしてくれるのは、「神様やご先祖様」なんて「不確かなモノ」ではないはずだ。

「父や兄という問題」と、ちゃんと向き合う。

これが大事なのではないかと思う。

つまり僕には、母が「やるべき事」をやっていない様に見えてイラ付いていたんだろう。

 

信仰は「自分が選んだ選択に自信を持たせる為のモノ」であるなら、健全だと思う。

「ナンデモカンデモ神様が助けて(叶えて)くれる」という信仰は、健全だとは思えない。

「問題と向き合う」とかってのは、僕の主観だ。

母には母なりの「向き合い方」をしていたのかもしれない。

だけど僕には、母はどうにも「消極的」というか、「問題を避けている」様にしか見えなかった。

当時の僕が、自分の気持ちを「明確に言語化」出来ていれば、僕の気持ちを少しは伝えられたかもしれない。

「神様は何も助けてはくれないよ?」

当時の僕には、この発言が精一杯だった。

現実を見ろ! そんなんじゃ、何も解決しない!

我が家の経済事情は破綻していた。

母は「やれる事はやった。」「後は運まかせだ!」とドッシリ構えているのではなかった様に見えた。

「もう、これしかない!」「後は運まかせだ!」と、「宝くじ」なんぞに走り、「詐欺商品」で損をする。

 

経済事情の他にも「父や兄の問題」もある。

母は「父のアルコール依存を治そう」としたり「兄と向き合って、無理なモノは無理だとわかってもらおう」とする動きは見えなかった。

自分で「なんとかする」という行動ではなく、「神様やご先祖様に助けてもらおう」と、祈りやお供えを捧げる。

現実を見ろ!そんなんじゃ何も解決しない!

 

当時の僕は、中学生かそこらだった。

自分の事しか見れなかったし、自分の事で精一杯だった。

僕は母に助けて欲しかったんだろう。

我が家の現状を変えて欲しい。

「現状を変えるのは、母の仕事だ。」

「だって、問題の種を蒔いたのはお前(母)なんだから。」

そう思っていたんだと思う。

 

「家族は助け合うモノ」

僕はこのセリフが好きじゃない。

僕は「これ」をずっと強要されてきたから。

だけど、「僕自身が母に強要してきたモノ」でもあったんだと思う。

だから僕は、母の「運頼み」「神頼み」にイラ付いていたんだろう。

「そんなモンに頼ってないで、何か行動しろ!」と。

 

僕も父も兄も、あの頃は「母に頼りっきり」だった。

モチロン「みんなが」疲弊していたんだろうけれど、特に「母の疲弊」が強かっただろう。

母が「現実を見れない」のは当然の事だったのだと思う。

「現実を見ろ!そんなんじゃ何も解決しない!」

「これ」は、僕自身にも当てはまる事だったのではないかと思う。

僕自身が「カーさんがなんとかしてくれる。」という「神頼み」的な事をしていたんだろうと。

 

今更何をしても、「当時の我が家」を変える事は出来ない。

だけど、「僕の頭の中の我が家」については「違った視線」や「違った対応」が出来る。

そうしていけば、「新たな気付き」も出てくるだろうし、「考える課題」も見えてくる。

そうしていけば、「より生きやすい人生を送れる」と、僕は信じている。

 

最後にひとつ。

宗教っぽい話になったけど、母は「そういったコミュニティ」には属していなかった。

僕の知る限りだけどね。

僕も属していた事は無い。

まぁ、「宗教自体」が悪いとも思っていないんだけども。

のめり込み過ぎて、周りに影響が出ない分には良いんじゃないの?って感じの価値観です。

こういうのを毛嫌いする人もいるかと思うんで、一応、関与は否定しておきます。

2 COMMENTS

しもけん

当時、うちの母も黄色の財布とか持ち出していたし、宝くじ買ったりしてたよ。
なんだったら2人で競輪場行ったとか言ってたよ。(頻繁にではないが)
うちの母も断れない人で問題ありありな人だったし、生活の中で不安が強くなっていたからチッタ母と共鳴しちゃったんだろうね〜。

問題を直視して、誰かに頼らず自立しようとするって本当に大事だよな〜。

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titta31@

なんと!?競輪場は初耳だわw

我が家の問題は家族全員が作り出した大作だから、カーさんひとりを責めるわけにはいかないんだけどね。
その中でも負担の強かったカーさんがまともに問題を直視するってのは難しかったと思う。
問題を直視して自立していくのは誰だって難しいけど、なぁなぁにしていても何も良くならないしね。
現状維持のつもりでは衰退する一方で、時間が解決してくれる事もあるかもだけど、そこの見極めも問題の直視が必要なわけで。
うーん、やっぱ大事ですわ。

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